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デジタルアーカイブとは

せんだいメディアテークは、2004年から行っている「せんだい街のアルバム製作委員会」というイベントを通して、仙台の昔の風景を記録した写真などを収集し、デジタルデータ化して保存・公開してきました。このようにして過去の記録をもとにして「街のアルバム」を作成していくことは、私たちの住んでいる街の記憶を発掘し、私たち共通の財産として確かな形で次の世代に伝えることにつながります。ひとつひとつの記録から重層的に街の歴史を織り合わせることは、仙台という街の出自を再認識させ、今後の街のあり方を考えることにつながるでしょう。

このたびは本Webサイト開設を記念して、「せんだい街のアルバム製作委員会」イベントにご協力いただいている『仙臺文化』編集室 渡邊慎也氏、セルプラン 川村信太郎氏、仙台郷土研究会 渡邊洋一氏に、「仙台の現状」、「せんだい街のアルバム製作委員会の役割」、「今後について」を熱っぽく語っていただきました。

街のアルバム鼎談

日時 2008年5月17日(土) 17時〜
場所 せんだいメディアテーク 7階メディアアシスト
参加者 『仙臺文化』編集室 渡邊慎也氏
セルプラン代表 川村信太郎氏
仙台郷土研究会 常任理事 渡邊洋一氏
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仙台の現状

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川村信太郎 街のアルバムで集めようとしている写真は、昭和の時代が中心ですよね。昭和30年代中頃の以前と以後では、世の中すっかり変わりました。特に昭和30年前後に一般の人が写真機を持つようなった。それ以前は、ある程度のお金持ちというか、商売人が多かった。そういうことを考えると、昭和の初期から昭和30年代までの写真を集めるのは、結構難しい部分がところがあるんですよ。

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渡邊洋一 ただ、ある所さえ分かってしまえば、そこにはごっそりありますよね。

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渡邊慎也 仙台を記録した写真は「市民共有の財産」ということで、積極的に収集していくことが大切です。歴史民俗資料館では、所蔵の写真集を全部復刻し、「写真アルバム」として刊行しています。これは非常によいことですね

川村 大体、写真を撮るとなると、ポートレート関係が、第一ですよ。街のアルバムというか、街の記憶・記録という感覚では、物は撮っていない。バックに街並みが入っているというのがほとんどだと思います。それから、学校関係、団体関係ですと、意外とバックに入っている。

渡邊(慎) 学校や大学の「卒業写真アルバム」も、収集対象に入れる必要がありますね。それらには当時の市内の風景も入っていますから、掘り出し物が出てきますよ。以前、東北大学医学部の卒業アルバムに、北六番丁を流れる“四谷用水”を見つけ、関係者に連絡し喜ばれたことがあります。このようなことは「東華学校」、「東華女学校」、「女子専門学校」などにもあてはまると思います。

川村 昔、常盤木学園が本柳町にあったように、街中に学校がありましたよね。しかし、東北学院を最後に、街中から消えてしまいました。学校の写真は、校舎を写しておきながら、周りを写している。全体像を写している写真なんかみると、意外とその中に大事なものが残っている。そんな感じですね。

渡邊(洋) 学区を写すという形になりますのでね。ただ、それらの中には、10年くらい同じ写真を使ったりしているんですよ。

川村 そうね、その辺がいつの写真かと限定するのが難しいですね。

渡邊(慎) 私は古書店や古書目録から学校の「写真アルバム」を見つけると、図書館などに連絡することにしています。

川村 あとはイベント関係ですか?七夕写真っていうのは、当然仙台ですからありますね。

渡邊(慎) それから仙台にはいろいろな官庁の教習所がありました。鉄道教習所、逓信講習所、税務講習所など。こう言うところは「卒業記念アルバム」を必ず作っていましたから、その中から面白いものを掘り出すことも可能です。霊屋下(おたまやした)にあった逓信講習所の例をお話しましょうか。仙台の雨水排出口は明治期以降、定禅寺通西端、片平丁、愛宕橋下と三ヵ所に作られました。それ以前に作られた愛宕橋のところの排出口は、“朝霧の滝”として有名なので、その写真を探していました。これはまだ見つかりませんが、片平丁の排出口から水が滝なって流れる様子が、昭和初年の逓信講習所卒業アルバムに入っていました。未発見の写真が思わぬところにあるのでは・・・・と、期待しています。

川村 意外と商家は持っていませんね。焼けてしまったのもあります。東一番丁の本だとか、中央通の本を作った時も、「写真、写真」とかなり言って、探し回ったのですが、家族写真と、店頭写真は出てきますが、あとはお話ばかりですね。ただ、明治生まれ、大正生まれの方々で、昭和20年代、30年代に一所懸命働いていた人逹が亡くなっています。そうすると、残された我々の世代以降の人逹は、写真に写っている人が誰かも分からないし、捨てるわけにもいかない。そういう写真類を集めて、街のアルバムの中に入れることはできないのかな?うまくその辺にアプローチできれば、思いがけず、思いがけない物が集まるんではないでしょうか?

渡邊(慎) 報道機関の人々に集まってもらい、こちら側の意図をレクチャーし、各報道を通じ「市民退蔵の写真をぜひ提供してほしい」と、アピールすることも必要ですね。「古い写真だから」として、焼かれ、捨てられるのは忍び難いですよ。

川村 そういうことになりますね。

渡邊(洋) そういう写真には、魂がやどっていると困るからって、お炊き上げしちゃうわけ。

渡邊(慎) 昨年、仙台箪笥の展示会のときに、来場された数名の方から、「いろいろな古いものを寄贈したい」と要望が出されました。その中で亘理の人から、「写真も多くある」ということで数十枚いただきました。その全部を歴史民俗資料館に納めましたが、これらは当時の写真史の面からも、欠かすことのできないものでした。また、別の人からは仙台の写真館で撮影された、明治中期から大正期にかけての素晴らしい写真を30点ほど頂戴しました。これも歴史民俗資料館に納めています。これらをふまえますと、多くの人々が「写真類を処分したいが、むやみに捨てることもできない」と迷っていることが分かります。これに手を差し延べていくことも必要ですね。

渡邊(洋) 案外あるのがガラス乾板のまま持っている人ですね。

川村 そうそう。ただ、ガラス乾板で街の風景はないんです。ポートレートがほとんど。私も4代くらい前の先祖の写真を持っています。

渡邊(洋) あるのは建物の写真が多いですよね。専門家が撮ったものがそのままになって死蔵されている。

川村 今、明治維新の話をしても、もう120〜130年経っていて、誰に聞いても分からない時代になっている。でも、昭和20年代、30年代の写真であれば、まだ今なら、記録と記憶が残っている。

渡邊(洋) 戦前まで大丈夫ですよ。

渡邊(慎) 1930年代までは、なんとか大丈夫ですよ。それ以前になるとかなり難しくなってくるでしょうね。

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川村 今から20年位前に本作った時にもそうだったんですが、お話をすると、我々はつい、戦前と戦後という言い方なんですよね。終戦の前後というスタートで物を考える。それが私たちよりちょっと前の人だと、震災前、震災後という言い方をしますね。関東大震災の前か後かですね。ですから、あの辺から時代が違って、我々の世代で探して、集めたりしておいて、いい物というのは、昭和初めぐらいから、昭和の50年ぐらいまでのものでしょう。昭和50年というと、ついこの間みたいな感じもしますけど、もう33年経っているんですよ。「宮城県沖地震」が1978年ですよね。今、ケヤキの並木を見ながら思い出したんですが、以前、「杜の都の仙台」の街路樹の本をパッと見たときに、八幡町の通りのアオギリが載っていたんです。バックが皆、仙台市電なんですよ。今の人にとってみれば、仙台市電というのは、過去の物ですけど、昭和50年くらいまで(昭和51年3月廃止)は普通の風景でした。そういう写真類も今となっては、貴重な写真であるということです。ですから、昭和50年くらいまでがいいのかな?と思います。その後になるとね。またぐちゃぐちゃになって。現在、特に、あきらかに、ここ1年2年、めちゃくちゃに街が変わっていますから。

渡邊(洋) まちづくりというか、都市の変遷をみていると、概ねこれまでは変化のスパンでいうと5〜10年の間隔だったんです。ところがここ5年くらいでで、それが3ヶ月スパンになってきている。ですから1年間が4つに分かれてくるなんてことにもなるんですよ。

川村 この5年くらいですね。そうすると。

渡邊(洋) そうですね。特に頻繁なのが、一番町の真ん中。プランドームあたりがすごい。

川村 ま、二番丁通りも、ものすごい勢いで変わっていっているのは、実感しますね。

渡邊(慎) 市内中心部の変貌は、要するにスクラップ・アンド・ビルドのスクラップの時期にあたったことが主な原因でしょう。戦後10余年の間に、復興のシンボルとして建てられた建物が、更新期に入ったとして、いっせいに建て替えを始めています。もう一つ。学校施設の郊外への移転もありますね。これらの二つが重なり、街の表情がすっかり変わってしまいました。

渡邊(洋) あと、もう一つ言えるのが、OA対策なんですよ。オフィスビルでもOA化にしないと、人が入ってこない。

川村 電線と同じように、(OA配線も)建物の中での地下化と。

渡邊(洋) それが、メディアテークが建つ頃から後はそんなかんじですよ。

川村 メディアテークが建つ以前と以降では違うということですね。

渡邊(洋) いまでも南町あたりでビルがガラガラになっていってるのは、そこなんですよ。耐久年からいくと30年から50年もつんですが、それこそ、OA化してないというだけで誰も入んなくなってくる。特に昭和50年前後に建ったビルなんかに多いですね。

せんだい街のアルバム製作委員会の役割

アーカイブしていく、残していくということは?

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渡邊(洋) 残すことによってつなげる、ということです。昔あった物がそのまま残っていれば、いんだけど、「無くなってしまったよ」「その前のこと分かんないよ」じゃ、どうしようもないので、昔のもの・そういった事項を踏まえて、「今があるんだよ」というのが分かってないといけないし、また、「今があるから将来があるんだよ」っていうのが分かんなくちゃいけない。つまり、今のこと分かってないと、将来どうなるかが、分かんない訳でね。歴史学っていうのは、それを本来はやる学問なのにも関わらず、昔のことしか考えなくなってきた。そうじゃなく、昔こういうことあったから、今後あるとすれば、こういうことがあるだろうと推量することができる、洞察することができる力を養うのが歴史学だっていう原点にかえらなければならないでしょう。

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川村 あたり前のことなんですけども・・・、ただ昔のことを懐かしんでやるんだったら、非常に小さな意味しかないわけでね。

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渡邊(慎) 今という時点。つまり、“現在の社会的事象”をすべて記録し、そして保存していく。これが本来のあり方ですね。いわゆるメディア史学的な、あるいは博物館学的な手法です。洋一さんが言われたように、過去と現在をつなぎ、そして将来を考えていくための材料にしていくことが大切です。日本の場合、建物は従来、木と竹と紙で造られ、西洋の石造りとは本質的な違いがあります。このため過去を捨て、新しいものに移ることを当たり前としてきました。これからは西洋と同じように、今を記録し、今を保存し、それらを蓄積することにより、歴史史科の集積として将来に結びつけるという、本来の姿になる必要がありますね。この意味でメディアテークの役割は大きいですよ。

川村 今はテレビの時代です。テレビの刹那的な映像は、もちろん保存できるし、記録できます。しかし、従来からあった新聞、あるいは印刷物、写真というのは、今、保存しておかなければ、たぶん、これからは見つけられない。今の映像時代は、その質量からみて、逆に残っていかなくなるんじゃないかと思えます。そういうことを考えれば、今残しておいて、それを続けていくというのが、必要なんじゃないかなと思うんです。

渡邊(慎) それから、記録の正確性。これが大切ですね。記録には、「文字メディア・音声メディア・映像メディア」と大別して三種類あります。文字メディアとしての記録は、一般的には、聞き書きとなります。この場合、その必要性は分かりますが、正確性に難がありますね。じゃあ、写真は100%正しいかというと、切り方により伝達部分が変わりますが、特別な加工をしなければ、その場面や人物を正確に後世に伝えることができます。ですから、非活字メディアである写真や動画は、事実を正確に伝承するための最高の媒体だといえますね。

渡邊(洋) 昔の地図なんかを作っているとね。「ここにあったはずだ。俺、ずっと住んでたんだから、間違いない!」なんて言われることがあって、そうかなと思うこともあるけど、実際には5年10年が一緒になっている。地図はその時代の一時点を切り取って作るので「その時点には存在しなかった」なんていうことがあるからね。ざっと昔というと、100年も1000年も一緒になっちゃうから。そういうことから考えると、写真なんかの資料は、そこで切り取った一場面ですから、それはそれなりにきっちりした代物になる。ただ、使い方にはよるんですけどね。

渡邊(慎) メディアをどう使っていくかという課題では、過去の写真の解明を間違いなく行っていくことが大切です。現在、このことで苦労しているわけですが、時間がかかりますが、しっかりと作業を進めていくこと大切です。

渡邊(洋) 写真が残っていても、それがどういう意味合いがあるものかが大切です。「誰がどこで写したのか?」「写っている物は何なのか?」それがわからない写真では、資料的な価値は無くなっちゃうんですよ。だから、それがわかっているうちに記録しておかないといけない。それが一番大事なんです。例をあげると、「この写真、何年頃のものだろう?」「ここにミゼットが写っているから30年代の半ばだよね。」って言ったって、ミゼットなんて、今でも現役だったりしてね。そうなると、それより前ではないことは分かっても、そこから後までの幅がでてくるわけでしょ?だから、その資料の時代を特定するためにもその記録が必要ということ。

川村 今やっているすずめ踊り、あれ、5年前のすずめ踊りと、今日のと、その差が分かるように、撮ってあれば分かる。そのような写真を撮れとよく言っているですが、現実には、なかなか撮れない。撮影時期が分かるように撮れば、それによって記録としての写真が生きるんです。まあ、今集めようとしている写真は、そんな視線で初めから撮っていません。ですから、それらを検証できる今のうちに、集めておきましょうと言うことですね

渡邊(慎) 東北電力のグリーンプラザで写真展を開催しているグループに、いつも呼びかけているんです。それは、「あなたちのメンバーは25人ということだが、1年に1人5点ずつ“仙台の今”撮影して、メディアテークに納めてもらいたい。」そうすれば、「あとあと多くの人々から大変感謝されますよ」と・・・・・。つまり、1つのそのグループがで、“仙台の今”を100点寄贈すると、30グループではなんと3,000点もの記録が集まります。例えば、「せんだい街のアルバム製作委員会」で、2010年に展示会を開催するとして、呼びかけを続けていけば3年間で、1万点近くの“仙台の今”を入手することができるのです。

渡邊(洋) そのときの写真っていうのが分かるようなものを撮ればいいんで。場所が特定できて、時間と年月が特定できれば、あとは、何とでもなるんですよ。

川村 写真、応募写真もみんなそうですけども、いつ、どこで、だれが、何を撮った物か?必ず、「写真の裏に書いて出しなさい」という募集の仕方をしますよね。公共団体やいろいろな会が主催し、そのようにして集めますよね。そのように集まった写真、どうなったの?ということなのよ。結局、第1回なんとか、第何回なんとか、ってゆう写真展やったものが、みんななくなるんですよ。そういうのがどこかの倉庫にあるはずだから、それを譲り受けるというような集め方もできるんですね。

渡邊(洋) 良心的なところは、本人に返すんですが、そうじゃないとお蔵に入り、分かんなくなっちゃう。たまたま出てくると、「これどうする?」「いらない」といって捨てちゃう。そういう形になるんですよ。

今後について

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川村 これまで全部、いわゆる現状から、役割から、今後について、そのつど、いっしょくたになって話しましたけど、あらためて・・・。まず、「残しておかなくてはいけない」、それから、「それをどのように活用していくか?」を常に考えておく。その二つだけを真剣にやっているだけで、精一杯じゃないかな?と思いますけどね

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渡邊(慎) 市民から見た目線で言えば、窓口の確定が必要ですね。窓口はここだよと言うことを、「市政だより」などでPRしていくことが必要です。その窓口はメディアテークに限らず、歴史民俗資料館でもよいのです。「古い写真は歴史民俗資料館へ」ということでもよいでしょう。窓口の明確化と寄贈の呼びかけを市民に定着させるため、継続的な広報活動が必要になりますね。そのような中から、びっくりするような写真も出てくると思いますよ。

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渡邊(洋) ここで集めなくても、どこで持ってるっていう情報源情報をきっちり集めておく必要はあるでしょうね。もちろん、公開できないものもあるでしょう。ただし、「ここでは持ってる」、「保存はちゃんとしてるよ」といった情報をつかんでおく必要があるわけでね。たまたま同じような趣旨でやってるのが、片平の東北大学史料館では、大学のアルバムから取ってみたり、某名誉教授が持ってて寄贈されたものをデータに変えたりして、コレクションを増やしていますよね。じゃあ、「それはどういう風に使ったらいいの?」「そこに行ける人はいいけど、行けない人はどういうふうにしたらいいの?」と、聞かれた場合に答えられるようにしておくという必要があるわけです。だから、自分たちが集めて、活用して、保存するだけじゃなくて、ほかでどういう形で、それを使うにはどうしたらいいか?そういうような部分ですね。図書館でいうレファレンスの部分なんだけど、そういう部分も必要になってくるでしょう。それは、ある程度集まってきて、認知されたらの話ですがね。

渡邊(慎) デジタルアーカイブの手法が導入されると、例えば場所を示して、年代別に写真を取り出すこともできます。あるいは3次元空間の中で、いろいろな引き出し方も可能となります。例えば「東二番丁小学校で、明治時代に使われた教科書を知りたい」という要望には、@教科書の種類、A画面での内容紹介、Bそれらの所蔵機関、C利用方法・交通手段などを、簡単な操作で答えを得られるというわけです。ですから、できるだけ早くデジタルアーカイブの手法を実施に移してほしいですね。

川村 集まった物の整理というのが、力仕事になるということを覚悟の上で進めない限り、うまくいかないということを心に強く思っていてください。

本日は、どうもありがとうございました。